※詩の同人誌「ウルトラ 12号 吉本隆明特集」(2008年10月15日発行)に寄せた文章を、ホームページに掲載しました。掲載に当たって改変した箇所があります。また、校正を経る前のデータを貼り付けましたので、誤字脱字等があるかもしれません。ご容赦ください。
2018年3月28日 及川俊哉
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現代詩は「霊性」を表現できるか~吉本隆明『日本語のゆくえ』を読む~
及川俊哉
【はじめに】
さきごろ出版された『日本語のゆくえ』(2008年、光文社)において吉本隆明は、「最近の若い人たちの書く詩は、無だ。」と述べている。これは、「いまの若い人たちの詩は、読む価値がない」と言っているのか。それとも「いまの若い人たちの詩は、『無』を表現することにやっきになっている」と解すればよいのか。この点を、考察してみたいと思う。
また、ゼロプロに関わる若い詩人たちの中にはこの本の中で作品を取り上げられたものも多い。そこで、吉本のこの意見に対してどう思うかをたずねてみた。その会話から、最近の若い詩人はあまり吉本のこれまでの評論的な著作を読んでいないのではないか、という印象を受けた。少なくとも、新刊が出るたびにこれを追い求めて買ったり、ある世代のように時代状況の中で自分のアイデンティティーを模索するよすがの一つとして読む、という熱中はしていないようだ。その点、自分は吉本のいう「若い人」の世代であるが、ちょっと毛色が変わっているのか、何かにつけて吉本の発言を追って読んできた方であるし、進路選択や人格形成で葛藤したり、労働環境に絶望的になったりしたときに吉本の論を参考にして納得したりということをしばしば繰り返してきたクチなので、このことはちょっと意外でもあった。
吉本の今回の著書は、談話をまとめたものという性格上、これまでの吉本の著作をある程度読んでいないとその言わんとするところが推測しづらい。そのうえさらに「若い詩人」たちが吉本の著作に親しんでいないのでは、議論は噛み合わないだろう。
そこで、今回のわたしのこの論では、わたしはまず通訳的な立場をとり、「若い人」たちには吉本のこれまでの著作から理解される今回の発言の内容の解説をし、吉本(およびその世代?)に対してはいまの「若い人」がこういう詩を書くことになっている気持ちの中身を伝える、ということを試みてみたい。うまくいくかどうかはわからないが、とにかくやれるだけのことをやってみたいと思う。
なお、ブログでの発表ということを考慮して、読みやすいように引用は「*」印で区切って表記する。また、対応フォントがないなどの理由で断らずに引用部を改変する場合があることをあらかじめ記しておく。
【『日本語のゆくえ』の要旨】
『日本語のゆくえ』は全体で5章構成である。
章ごとの題名は以下の通り。
第一章「芸術言語論の入り口」
第二章「芸術的価値の問題」
第三章「共同幻想論のゆくえ」
第四章「神話と歌謡」
第五章「若い人たちの詩」
このうち、第一章と第二章が『言語にとって美とは何か』の解説、第三章と第四章が『共同幻想論』の解説になっている。
以下に各章の要約を載せる。
第一章「芸術言語論の入り口」
『言語にとって美とは何か』において、述べたことをまとめている。吉本は文学作品においてはまず「場面」の設定が大事であるとかんがえる。
次いで場面の「転換」が大事である。
場面転換の要素は詩作品では「喩」の作り方にもあたる。「転換」は、同時に詩の展開の密度を決定する。
次に、近代詩においては「等価」という点が重要になる。近代詩は西欧の詩の表現と「等価」になろうとしてきた。また、日本古典の表現と「等価」にしようと工夫を重ねた詩人もいる。
「場面」「転換」「等価」の三つで詩の表現は過不足なく考えることができる。
一方言語芸術の「価値」をはかる場合重要になるのは「自己表出」である。
「自己表出」とは「直接的あるいは純粋に芸術の価値の根幹をなす部分」である。
より具体的に言えば「コミュニケーションにではなく内発的発語として自分が自分に対して語りかける言葉」である。これは表現されなくともよいので、沈黙も含む。
これに対して、「感覚からやってくる間接的な価値」を表現するもの(物語性や表現技術やコミュニケーションに関わるもの)を「指示表出」とする。
第二章「芸術的価値の問題」
吉本は言語の価値を「自己表出」「指示表出」の関わりから考えていく。
マルクスの言う商品の二つの価値のうち、「使用価値」が「自己表出」にあたり、「交換価値」が「指示表出」にあたる。
言語は自己表出と指示表出が縦糸と横糸のように織られ、分離できなくなった織物である。
言語に芸術的価値をもたらす元は、
①通常考えられる自己表出に自己表出をもっと継ぎ足すこと。
②通常考えられる自己表出に指示表出を継ぎ足して、自己表出に関与させること。
の二つである。
言語芸術では、指示表出の側面と自己表出の側面をぴったりと噛み合わせるには、作品世界全体を無限遠点から眺める「世界視線」を持たなければならない。
この視線が明確でないと総合的な芸術的価値が生じにくい。
また、自分(作者)と、理想を願望するもう一人の自分とのあいだがどれだけ豊富であるかが自己表出の元となる。
このことが「世界視線」の問題と関わる。「世界視線」を完全に獲得していれば、複数の場面を同時に見わたすことができる表現になっているはずである。
斎藤茂吉の短歌は世界視線の表現が成功しており、優れた作品である。
日本の詩や散文、小説はここまで到達していない。
第三章「共同幻想のゆくえ」
吉本は人間の観念の働きの集合体を「幻想」として考える。幻想の領域は「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の三つに分けられる。
「個人幻想」は人間が個人として持っている自己の幻想であり、
「対幻想」は人間がふたりのペアとなったときに持つ幻想であり、
「共同幻想」は二人以上の複数の人間が社会や国家などという形で持つ幻想である。
このような分け方を立てるのは、それまでの社会科学的な分析が政治的社会的な集団のみを対象としているのに不足があると考えたからである。
政治的社会的な集団で言われる「価値」と芸術においての「価値」とはどう違うかを明確に分けなければいけないと考えたからである。
芸術の問題の根幹は対幻想と個人幻想のあいだに根底がある。それは、芸術の根幹が精神的ないし身体的な性の問題、つまりセックスの問題に帰着するからである。
(これは、言語論における「自己表出」の問題を社会論的にとらえ直したときに「対幻想」「個人幻想」として
記述しなければならないと言うことだと思われる:及川)
現在までに吉本が問題として抱えているのは、次は、この三つの領域に分けられた幻想が、どこで総合されるのか、という課題だという。
(この点はおそらく言語表現論で述べた「世界視線」がおおきく関わってくるのだと思われる。つまり、複数の幻想領域を俯瞰する視点をどこにどううちたてるか、という課題として:及川注)
第四章「神話と歌謡」
この章は第三章の具体例を挙げている。
神話によって古代の人々が三種類の幻想領域をいかに総合しようと試みたか、という具体例。
第五章「若い人たちの詩」
今の若い詩人たちは神話をつくろうとしていない。これは共同幻想について考えたくなく、今現在だけにしか関心がないということ。これを吉本は悪いことではないと考えてきたが、たいへんな弱点だと考えるようになった。
過去も未来も現在も表現できない、無の状態にある。
若い詩人たちの詩は三種類に分けられる。
一つは、日常性を対象にしているもの。日常性を書いても、転移ができておらず(喩が作れていないので)何か言いたいのかわからない。
もう一つは、知識をたくさん使って難しいことを書いているが詩ではないもの。
最後に、「無」から詩的なイメージをつくろうとしているものがあり、これらには「脱出口」を探そうというモチーフが感じられた。
しかし、「感性とか感覚とか、それから内心でやっている自己問答みたいなもの、それが一致しないで、それぞれがずれているからむずかしい(P215)」と吉本は言う。
(これはさらっと述べているように見えるが、吉本のこれまでの著作と照らし合わせると
「自己表出と指示表出がずれており、焦点化せず、像を結ぼうとしていない」
と言いかえられる。
「脱出口」とは、この「焦点」「像」のことだといえる。後に詳述する予定だが、自己表出と指示表出が分裂し像を結ばないのは現代の社会状況と密接な関連があり、吉本自身このことを再三分析している。ここではそのことについて触れるだけにとどめておくが、全方位的な抑圧社会になっていること、身体像が結べない社会であることと密接な関連がある。逆に言えば吉本は現代の若い詩人があまりにも現状追随であると指摘しているのだといえる:及川注)
二つめの論点は、現代社会の自然の絶滅状態から詩をどう書いていくのか、という問題提起になっている。
日本の詩は「自然」を読みこまないと成立しない。
「自然」を再び呼び込むのか、または自然以外のものへ脱出していくのか。
これらの問題を考えていかなければならない。
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【吉本の現代社会観~経済的発展段階と人間の心理的発達の関連づけ】
吉本の現状認識は、マルクスの考え方を敷衍して、社会の経済段階から文化の段階や人間の精神状況を分析していく立場をとっている。
その観点から、現代の日本の情況を国民の9割が中流意識をもち、可処分所得の半分以上を選択消費に使っている「超資本主義」の段階に入ったと考えている。
『超資本主義』の主旨は吉本自身によって「文庫版のためのあとがき」にまとめられている。その部分をまずぬきだしてみる。(引用部は太字)
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『超資本主義』というのは(中略)歴史的に極限まで進んできた資本主義ということで、現在の先進地域の国では、この『超資本主義』の経済構成になっているという、わたしの考え方をあらわしている。わたしがその表徴だと考えている大きな柱は、すぐにふたつ数えられる。
(一)は民間の消費支出が、国民総生産の半分を超えていること。これは個人消費が実質的にも名目的にも国民総生産の半分以上を占めているといっても、ほぼおなじことになる。
(二)この消費支出のうち選択できる(加減できる)消費支出が半分以上を占めていること。民間の個人消費のうち節約しようと思えばできるし、放漫に消費しようとすればできる部分がこれに当たっている。
このふたつから、国家や社会のような集団や機構から個人の生活行動や精神の振舞い方にいたるまで、さまざまな特徴がうみだされていると思う。
(『超資本主義』「文庫版のためのあとがき」より。引用は1998年発行の文庫版によるが、単行本発行は1995年。)
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この点をもう少しくわしく見ていくために本文を引用してみる。
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現在の世界でアメリカ、日本、EC(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)の三地域、いいかえれば現在の世界で経済的にいちばん先進的といえるこの三地域では、むき出しにいってしまえば近経であれマル経であれ、支配の学が通用する時代は、すでに終焉してしまっている。その条件は単純化してしまえばつぎのふたつだ。
(1)個人所得あるいは企業収益のどちらをとっても、所得あるいは収益の半分以上が消費または総支出に使われていること。
(2)しかも、この個人所得の消費または企業総支出の半分以上が選択消費(択んで自由に使っている消費)あるいは設備投資(あるいは択んで自由に増減できるその他の支出)に使われていること。
(中略)
これらの三地域で、簡単なために月額所得百万円の個人を例にとる。するとこの個人は五十万円以上を消費に使っている。そしてそのうち二十五万円以上を選択消費に使っている。単純化のためにいま全人口の九割一分を占める中流意識の国民大衆が一斉に生活水準は落とさずに(つまり必要消費には手をつけずに)自由に択んで使っている二十五万円以上の選択消費だけを、せめて半年期だけでも引き締めて使わないと仮定する。すると約六割のウェイトで、日本国の経済規模は四分の二(半分)から四分の三縮小されることになる。個々の企業が設備投資を中心とする選択支出を年半期一斉に引き締めたとすれば、全ウエイトで日本の経済規模は四分の二(半分)から四分の三縮小されることになる。
そして経済規模が半分から四分の三になってしまう経済恐慌や景気後退に堪える不況政策や対策などは、どんな政府(自民であろうが社共であろうが)をもってきても不可能だということはいうまでもない。わたしが何をいいたいかははっきりしているだろう。現在の世界でこの三地域(アメリカ、日本、EC)では国民大衆の経済的な潜在実力は、どんな政府支配をもってきても統御できないレベルに到達しているということだ。
(中略)
(…)すでに消費が所得や収益の過半量を占め、また選択が可能な消費が全消費や総支出の過半量を占めるようになったために、経済政策のどんな担当者よりも、諸国民個人や企業体のほうが優位になった地域国家で、社会生産が第三次産業に主体が移ってしまった(…)
(中略)
わたしは(…)経済現象と文明とは、その中核のところで自然現象とおなじように、自然史的な過程であって、人工的な政策で統御できるのは、発達の遅速だけだということをマルクスから学んだ。この文明と経済の発展過程は停止させることも、逆戻りさせることも、跳躍させることもできないということだ。
(中略)
わたしは断言して予告しておくが、たとえ佐和隆光や中野孝次が政府の経済政策や道徳政策の顧問になって国民大衆に勤倹節約を強制しても、経済機構は高度化への自然史的な発展をやめないで、第三次産業化への度合いをすすめてゆくし、都市は農村との接触対面をますます少なくして、H・G・ウェルズの未来小説的にハイパー都市化をすすめるとおもう。この方向は政策や政治とはかかわりない自然史的な必然に属するから、自民のような保守政府でも、社共のような進歩政府でも、退化してしまうことはありえない。せいぜい文明の進展に反動的に逆らうことで、多少の遅れをもたらせるだけだ。
(中略)
わたしはなんべんでも強調することになるが、所得賃金の半分以上を消費にまわすような社会の段階で、賃金を得るために働いたり、企業体を運営したりするのは、なぜなのか?そして何のためなのかが解明され、認識されなければならないところに、世界の先進地域国家はやってきてしまっている。そしてわたしたちは現在までのところ、確かな解答をまったくもっていないといっていい。ただ経済の必然からいえば、世界の先進地域国家では消費の四〇パーセントぐらいを教育費(いいかえれば次世代の賢人化)に使っており、これは増してゆく一方だということだけだ。別のいい方をすれば<賢くなる>ということがどういうことかわからないのに、世界の先進地域は、じぶんの次世代(子供の世代)に知識をつめこませるために、消費の半分ちかくを使っていることだけは確かなのだ。
知識の天狗になっている連中は、懸命になって<賢くなる>とはどういうことか解明すべきなのだ。
(「第一章 超資本主義の行方 不況とはなにか 1」および「2」「なぜ働くのか」より)
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日本を含む現代の経済先進地域では発展段階は考えられる限界にまで到達しており、その徴候は9割ちかくの個人の、所得に占める消費の割合が半分以上に達していることに示されていると吉本は述べる。このような消費社会は歴史上現れたことがなく、そのことを背景にしながらこれまで考えられたことがないような文化状況が現れてくるとも述べる。また、吉本が次のように述べていることは重要だと思われる。
「所得賃金の半分以上を消費にまわすような社会の段階で、賃金を得るために働いたり、企業体を運営したりするのは、なぜなのか?そして何のためなのかが解明され、認識されなければならないところに、世界の先進地域国家はやってきてしまっている。そしてわたしたちは現在までのところ、確かな解答をまったくもっていないといっていい。」
吉本はもはやわれわれは労働や企業運営がそれ自体で自明ではない時代に入っていることを指摘しているものと思われる。個々の個人の労働や企業の経営のありかたが問われる時代から、なぜ経済が営まれなければならないのか、というメタ経済学が必要な時代であることを示唆している。
さて、このような現代の経済状況が人間の精神に与えている影響はどのようなものであるか。吉本は『時代の病理』という対談本で次のように述べている。
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吉本 もうひとつは、基本的な疑問ということになってしまうわけですが、もし人間の性格とか心理の動かし方に、カウンセリングの対象になる異常性とか正常性があるとして、正常性はカウンセリングの対象にならない。しかしこの正常性を正常性と解さないで「平均性」と解すると、この「平均性」からなんらかの意味での逸脱といいますか偏りは、いってみれば全部のひとが免れがたいことで、その偏りに対応するだけのべつな意味での特色というか個性がある。つまり偏りなしには文明とか文化は展開したり発展したりしてこなかったんじゃないかとかんがえますと、もうちょっと普遍的な絶望性みたいなものにつながるわけです。要するに人類は異常とか逸脱、あるいは偏執とか偏向ということによって文明を築いてきたんだから、これはどうしようもない普遍的な情況をもっている存在なんです。とくに、子供をもっている男子、つまり父親という場所で男性をかんがえたとき、人類というのは、どうしようもない絶望的な存在なんじゃないかという普遍的な考え方になります。
そうすると、この普遍的な絶望は、なにが解決するのかといえば、おおきな射程で描かれた時間とか時期を遮二無二でも通過するほかないんだとかんがえます。じぶんで気づいていないのはもちろんのこと、母親も気づいていないかもしれないみたいな、胎児とか乳児期のところまでかいくぐっていかなければ絶対治らないよという、正常にいくらカウンセリングしたって治らないよとおもわれるひじょうにむずかしい病気もふくめて、ある時間といいますか、時期といいますか、時代といいますか、そういうところを遮二無二でも、治らなくても、異常のまんまでも、倒れようとどうしようと、とにかくそこをくぐっていかないと、人類はどうすることもできない、だけども、それはやっぱりくぐるということで、その時期を通ってしまえば、もしかすると希望を持てる時代とか、時期がくるかもしれないという考え方を、ぼくはとりたいわけです。
(中略)
吉本 それで、田原さんがさっき新しい時代といわれたことと関連していえば、日本はとくにここ四、五年来、急速に変化しつつあるような気がするんです。つまり、バブルが弾けようと弾けまいと、とにかく日本の社会をみると、だいたい九割のひとがじぶんは中流の意識をもっているといいます。中流の意識をもっているということは、中流の無意識をもっているというのとおなじです。そこで九割の中流の無意識が病気であるとすれば、だいたい九割の人間はカウンセリングを必要としている。すくなくとも二十四時間の内、ある時間帯をとってくれば、九割までは日本の社会人はカウンセリングを必要としている。そんなふうになってるとおもえるわけです。これは「赤信号みんなで渡ればこわくない」という流儀でいえば、この九割は正常と決めようじゃないかっていえば、あと一割を異常というふうにかんがえればよろしいわけで、いずれはどちらかの時代なんだということは、ものすごくたいへんな時期のようにおもえます。
ぼくにはもうひとつのデータがあって、たとえば五分位で社会的な条件、つまり経済条件とかそれに付随する条件を五段階に分けるとすれば、日本のばあいにはほとんど中間の段階に収まって、いちばん経済的に不都合であるというひとと、いちばんに有利であるというひととの落差が世界中でもっとも少ない社会なんです。きわめて奇形といえば奇形、異常な社会になっています。これが数年来の新しい社会とかんがえれば、ここで九割のひとが性格教育センターのカウンセリングを必要としているか、そうでなければ、もうこれは正常としようじゃないかと決めるしかない。どっちかになっているというのは、たいへん新しい時代なんじゃないでしょうか。ちがう言葉でいうと、<無意識の均質化>だといえるようにおもいます。だから無意識までふくめて全部カウンセリングの対象とかんがえると、九割はカウンセリングの対象だというふうになりますし、また九割の無意識が均質化されているならば、無意識ということはあまりかんがえる必要はないというふうにいえます。
(中略)
あっさりした言い方をしますと、九割のひとが中流だとおもっている日本の高度資本主義社会はまだ万万歳ではないかもしれないが、みな中流だとおもっているんだからまあまあいいじゃないのというふうになるけれど、ほんとに九割九分のひとが中流だとおもうようになったら、資本主義が存続するならば、つまり存続するならばということは自然にほうっておけば存続するにきまっているわけですが、そうなったときには「資本主義カウンセリング」が必要なんじゃないでしょうか。資本主義をどういうやり方でカウンセリングするのかわかりませんが、とにかくカウンセリングする以外にこれはどうしてもだめだ、生きられないということになるような気がするんです。だけどいくら発達したってまだ九割が中流だとおもっているくらいが精一杯なんですから、四割か三割が中流だとおもっていた時代よりはずっといいじゃないのといっていればすんじゃうことだし、資本主義は先験的に悪だというよりもまだましじゃないか、現状だとそういうふうになっているとおもうんです。
(中略)
田原 ところで「人間の概念を変える」ということに関連して、前の章でオセアニア、ポリネシア、ミクロネシアの数十万年前の大陸にいた人間についてのお話は、私たちには未来のヴィジョンの「原型」になりうるとかんがえられます。<気持ちの安心>というイメージで了解できる吉本さんのお話で肝心なところは、聴覚すなわち言葉にいたる近くによる身体イメージは、生理的身体の「核」をなしているから、「原型」になりうるということだとかんがえています。これは母親が病的に緊張していないという意味で、人間関係とか、共同性とか集合としての社会での<気持ちの安心>の差し出し方になる理性的な方法であるとかんがえます。吉本さんはこのような「共同性のイメージ」についてお考えになっていると理解してよろしいでしょうか。
吉本 いや、そこまではいっていないとおもいます。でも、そういう考え方にきちゃくするんじゃないかなとはおもいますが、それ以前にわからなくなっちゃうことがあるんです。
たとえば、旧日本人もふくめたオセアニア、ポリネシア、ミクロネシアとか、日本も島尾敏雄流にいえばヤポネシア、スマトラとか、ボルネオとか、ああいうところもふくめた島々の段階で、みんなまったく同類だったというところまでいくと、だいたい「言語以前の言語」までいけそうな感じがするわけです。そうすると、「言語以前の言語」の段階、つまり個人でいえば胎児の時から一歳未満ということになりますし、また人類でいえば、言葉がまだ民族語とか種族語の違いとか、あるいはいろいろに分節していくことをしない段階、十万年単位のところなんだとおもいますが、そこまで遡って「核」のところまでいける。そうすると、自然にすることと、じぶんが自然になることとがおなじだというところまでやっちゃえばいいんだという「森田療法」がある程度かんがえたことは、存外、日本人みたいなものの「核」に手を届かせているということになるのかなという感じもするんです。
つまりそういうときの日本人の一般的な特徴はなにかというと、『古事記』とか『日本書紀』とか、初期の神話の描写のなかにあるんです。たとえば、「草木がそう言う」みたいな、みんな言葉として擬人化されてきて、自然が言語をしゃべっているというふうに感じちゃう。自然をなんでも人間にしちゃうわけです。また、滝が落ちていると「滝津姫」とか、花が咲いていると「木花咲耶姫」とか、土地の名前でも、四国の愛媛県の地域は「愛媛」という女の神様だという。それは愛媛というところの地域に愛媛という女の首長が住んでいたということではぜんぜんないんです。つまり愛媛という場所イコール愛媛という女の神様なんです。そういう認識は、オセアニアンといいましょうか、言葉からいえば、オーストロネシアンというわけでしょうが、そういうところの特徴なんです。日本人もそうだといわれています。自然物の音とか、みんな言語脳で感じている。言葉だけは左の脳だということに分けられていないという、なにか言語脳で聴覚、自然の風の音とかにかんじちゃっている、そういう特質の段階があるんです。つまりそういうことと、言語以前の「核」の形声のしかたとはおなじなんじゃないかとおもえるところがあります。そうすると、「森田療法」がいっていることは存外、日本人もふくめて、オセアニアンみたいなそういう人間のばあいにとってはいいやり方なのかもしれないという気がするんです。
(中略)
吉本 だから、そういう「聴覚の映像」のイメージとしてはべつになんら人間の生の欲望に当面しないんですが、ある一定程度以上イメージが蓄積されて重なっていくと、「生命の糸」みたいなものを、つまり生きるという欲望を形成できるような糸の重なりといいましょうか、細い糸がゴチョゴチョ丸まったものといいましょうか、そういう「生命の糸」をつかまえられる契機が出てくる。それは言葉として形成されていく。ぼくはそういうとらえ方をするんです。その問題が精神のいちばん「核」のほうにそんざいしているとおもいます。
(中略)
田原 吉本さんは経済現象を「消費論」としてとらえてきたわけですが、どんなモチーフとして「消費論」をはじめられたのでしょうか?
吉本 ぼくはべつに経済現象を「消費論」としてとらえることが目的じゃなくて、いま世界におけるいちばん先端的な資本主義の状態はどうなっているんだということを分析して知りたいわけです。そうしたら、マルクスでもケインズでもフリードマンでも、そういう人たちの見解は参考になりますが、けっして当てはまりはしないんです。そういう事態だとおもっています。だから、それは参考にするくらい以上の意味はもたないというのが、ぼくの理解のしかたです。
マルクスは一生懸命分析して、そこで困っている人々を困らないようにするのにはどうしたらいいのかというモチーフで、十九世紀末の資本主義経済の分析をやったわけでしょう。つまり、小なりといえども、おなじことをいまの資本主義の現状についてできるだけわかりたいというモチーフが、ぼくのモチーフなんです。それは抽象というのも理論としては重要なんでしょうが、それよりもそれこそ眼の前にある現象でどこを掴んだらいいんだということがものすごく重要だとおもえるんです。ぼくの掴み方はそういうことになります。
その基本にある考え方は、マルクスの時代でいえば、農業とか工業とか漁業とかと製造工業との対立あるいは農村と都市との対立がまず資本主義興隆期の大問題で、ここでの公害問題は工場労働者の都会における肺結核であったわけです。そうすると、いまの資本主義ではどうなっているのか。ぼくは、製造業と農業との対立より製造業と第三次産業、つまり流通業とかサービス業とか、医療もそこに入りますが、その対立のほうが、働いているひとの人口も多くなっているし、もちろん生産額も多くなっている。主たる経済問題はここに移行した。ということは、ここに焦点を据えて分析するのが妥当なんじゃないか、というのがぼくの考え方です。
もうひとつの考え方は、ひとが承認してくれるかどうかはべつですが、民衆というか、大衆という場所が重要なんです。大衆というのはなにかというと、日本で具体的にいえば、八九パーセントから九一パーセントのひとが、じぶんは中流意識をもっているといっているわけです。この八九パーセントから九一パーセントという大多数の人たちを企業の中堅のサラリーマンとか中堅の働き手からいかに社会の主人公になりうるか、ということが課題の中心におくべきなんです。それがマルクスの時代は、中流じゃなくて下流意識をもっていて、市民社会から疎外されていたプロレタリアートを中心に据えなければおかしいじゃないか、というのがマルクスの考え方だとおもいます。いまはみんな市民社会のなかに入ってしまって、そんなのはいないんです。八九パーセントから九一パーセントの中流意識のなかの中流の下とおもっている人たちがそれに該当するんです。それもふくめて中流の人たちがどうなればいいのかということが課題だからそこに視点を据えなきゃいけないし、現状分析および公害問題のほうは、もう製造業と第三次産業のあいだに起る問題というふうにかんがえないとだめだろうという原則に立って、ぼくはやってきているわけです。
そうすると、八九パーセントから九一パーセントの中流意識をもった大衆とはなんなんだということになります。それは消費の場面に転換した労働者という言い方をしてもおなじだとおもいます。中流意識をもった大衆といっても、消費の場面からみた労働者といっても、それはイコールだとおもいます。どうしてそれはおなじになるのかといえば、いま申しあげたとおり、先進的なところでは所得の半分以上を消費に使っているわけですから、そういう人たちはみんな、消費の場面に焦点を当てるのは当然なんです。つまり経済分析を主体とする社会分析をするばあいには、生産の場面よりも消費の場面に目を当てるのは当然なんだというのがぼくの理解のしかたです。そうすると八九パーセントから九一パーセントという一般大衆に視点をあてるという分析のしかたになってきて、そこでの公害問題は、疲労、過労の問題とか、それこそ田原さんたちの専門的な精神的な問題がますます多くなってくるとおもいます。いまでも潜在的に多いんでしょうが、それは多くなる一方だとおもいます。なぜならばそれは、製造業などの第二次産業とサービス業などの第三次産業とのあいだで起こっているからです。むしろ<第三次産業病>といってもいいくらいです。
どうしてそこで起こるかといえば。製造業主体のときには、すくなくとも製品を百個つくるのに八時間かかったら、二百個つくるには十六時間かかるにきまっているというふうになっていた。それじゃ何時間残業すれば何個できるか、いちおうは単純計算でできる。ところが第三次産業では、そんなにはっきりわからないんです。おれはこういうふうに働いたから、何個できたということがそう簡単にいえない。おれはこんなに働いているのにどこに効果があったんだということがなにもわからないとしたら、つい働きすぎてくたびれるし、頭がおかしくなるといったらおかしいですが、神経的にくたびれていくということが多いにきまっているわけです。そういう境界線を彷徨する神経の異常とか、精神異常といいますか、いつでも異常と正常の境界を出入りしているものが現代の公害病の問題としてもっとも重要な課題になるだろうとおもいます。
いま説明しましたようなことは、産業段階として、「エコノミー論」とか「消費論」とかもふくめて(まだこれからもやりますが)、ぼくの主たるモチーフです。
『時代の病理』(1993年、春秋社)より
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九割の人間が中流意識をもつ現代日本社会においては、九割の人間の無意識が均質化しているので、九割の人間がカウンセリングを受ける必要がある。この状態を「第三次産業病」として「公害病」と見なす必要がある。あるいは逆に九割の人間の無意識が均質化しているならば、「無意識」というものをとりたてて考える必要はないのかもしれない。異常と正常の境界が不分明で、文化や経済の発展の善悪が不分明な、「資本主義のカウンセリング」が必要な社会になってきている、と吉本は述べる。
この点まだ不明瞭に思えるので、もうひとつ参考文献を引用する。『対幻想【平成版】』で吉本はこのテーマをまた以下のように表現しなおしている。
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芹沢 『ハイ・エディプス論』(言叢社)の中で吉本さんは、先進国社会では無意識はつくる段階に入ったと話されています。これにはたいへんびっくりしました。なぜびっくりしたかといいますと、無意識はつくれないというか、それこそ無意識に形成されてきちゃうから無意識だっていうふうにおもっていた面があったからです。しかし同時に、たとえば心の病でもなんでもそうですが、従来のやり方では片づかないような感じもあったりしたもんですから、こうフッとストレートに入ってくるのと、もうびっくり仰天だぜっていうような思いと両方あったわけです。そういうふうに主張される背景としては、まず資本主義の死ということがありますね。現に資本主義が超資本主義という新しい段階に移行しつつあるということ、そういう意味での資本主義の死というものはもう現実問題なんだということですね。
具体的にいいますと、エディプスコンプレックスというような、母親、父親とその子どもとの関係の中でつくられた無意識では、もう個体の無意識の問題は解けなくなっているとおっしゃっていますね。そうすると、資本主義体制と家族といいましょうか、性といいましょうか、そういうものをつなぐ核として、これまでエディプスコンプレックスはあったんだと。しかし、資本主義の死が明瞭に課題にのぼってきたということは、エディプスコンプレックスが現代の体制と家族なり、性をつなぐ核としてはもう主要なものではなくなって、またその核がもうすこし他の場所に移動したのではないか、あるいはその核そのものがもう有効性を失っちゃったんだというふうに、吉本さんの言葉を理解したわけです。
その次に、具体的に無意識をつくるというのはどういうことなんだということが疑問にのぼってきたわけなんです。これはどういうことを具体的にイメージされていたんでしょうか。
吉本 ぼくはかんがえやすいところから考えていったわけですが、そういうかんがえやすいところからの言い方をしますと、父親と母親とがいて、それで子供が生まれた。それが家族を形成する。もし、その父親と子ども、あるいは母親と子どもとのあいだに性にまつわる精神や心理の関係があるとすれば、そこにはエディプスコンプレックスが形成されてくる。それは無意識の中のいちばん意識に近い部分を形成すると思うんです。ところが、たとえば、Aなる家族の父親と母親から生まれた子どもの持つ無意識も、Bなる父親と母親から生まれた子どもの持つ無意識も、経済的な基盤からかんがえても、家族の状態からかんがえても、どこからかんがえてもそんなに代わりばえしなくなった。そういう超高度な消費資本主義の段階に入ってきた。そういうことを想定しないといけなくなった。そうしたら少なくとも、個々の父親母親から個々の子どもがひそかに受けとったであろうところのものが、あまり他のやつとちがいがないということです。これはもう無意識としては壊れているというか、かんがえなくてもいいということになるわけです。その段階がとても近いとおもうんです。
たとえば、父親と母親が持っている経済的な基盤だけじゃなく、父親と母親が持っている教育的な基盤とか、あるいは極端なことをいうと、容貌とかそういうことも含めてみんないっしょだってことが言えないといけないわけだけども、でもそういうものもだんだんいっしょになるぜっていうことがいえそうな段階に入ってきちゃった。それを経済的なことだけでいえば、今年(一九九四年)で九割九厘、去年でいえば九割一分、つまり九割の人が中流だって言っているっていうことは、Aという家庭から生まれた子どもの無意識とBの無意識とでは、もうなにも区別しようがないんじゃないかっていうふうになっていることを意味します。ここでは無意識はかんがえられない段階に近づきつつあるといっていいような気がするんです。もし無意識が人間の精神形成にとって必要だとするならば、それはつくられる以外にないじゃないかっていうことになってしまうわけです。
そのばあいにどういうふうにつくられれば理想的なのか、そこはむずかしいところで、あっさりした言い方をすると、この資本主義社会の未来はどうなるのだろうかという枠組みのイメージをつくるということと、無意識をつくるということとは、大枠においてはおなじことだというふうになるんじゃないでしょうか。
(中略)
芹沢 そうすると、無意識は、向こう側からつくっていくということが課題になってきたということと、もう一つは、吉本さんが「ハイ・イメージ論」で「大洋のイメージの世界」という概念を出されてますね。エディプス段階で心の病とか関係の病みたいなものがもう解けなくなったということに対して、さらに「大洋のイメージの世界」というもっとひろがりのあるところまで、つまり乳胎児期の完全な授乳状態、それから胎児の状態のところまで下がって、そこでかんがえていかざるをえない必然性が出てきたということ、そういう事態と対応するということでしょうか。
吉本 そうおもいます。
『対幻想【平成版】』(1995年芹沢俊介との共著)「開かれる対幻想の領域 ④資本主義社会の死と、無意識をつくるということ」より
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「九割の人が中流だって言っているっていうことは、Aという家庭から生まれた子どもの無意識とBの無意識とでは、もうなにも区別しようがないんじゃないかっていうふうになっていることを意味します。ここでは無意識はかんがえられない段階に近づきつつあるといっていいような気がするんです。もし無意識が人間の精神形成にとって必要だとするならば、それはつくられる以外にないじゃないかっていうことになってしまうわけです。」とは、どういうことなのか。どう考えればいいのか。
ここは大変難しいところなので、読み手のこちらとしても想像を交えながら読みほぐしていくほかない。もちろんこちらも消費を扱う経済や無意識を扱う精神分析学についてはまったく素人なので、間違いも多々あるかもしれないが、この際目をつぶって考察を続けてみる。
九割の人間の無意識が均質であると言うことは、一見誰もが等しくなって万々歳なようであるが、おそらく吉本はこの状況をよいものとは捉えていない。無意識が均質であるということは、個々の家庭で育つ児童が精神形成の過程で固有の抑圧を受けていると感じられない状況(「Aという家庭から生まれた子どもの無意識とBの無意識とでは、もうなにも区別しようがない」)であり、逆説的ではあるが実存的な自律感情がどの家庭でも児童に対しうまく形成できない状況にあることになる。なぜなら、父親からの抑圧とその克服というエディプス・コンプレックスの過程は、抑圧である反面、心的内容を親子間で伝授していくという意味においては、乗り越えのあとの「英雄」としての実存的自律感情の育成に寄与していたからである。
したがって、現代社会において個人が自律感情を獲得しようとすれば、過程における親子間の抑圧をバネにしながらも社会に存在する抑圧を自ら選択しなければならないことになる。
図式的に言えば、旧来の抑圧は「重力型」であり、社会成員全員を一極で抑圧する上下ヒエラルキー型の抑圧であったといえる。
それに対し新しい形の抑圧は「浮力型」であり、個人の周囲からあますところ無く押し触ってくるような全方位型の抑圧に変わっているといえる。
なんらかの抑圧を受け、それを克服することで人間の実存が形成されるとすれば、現代においてわれわれはこのような全方位型の抑圧のうち、なんらかの抑圧を選択し、それと向きあうことによって自己形成を成し遂げなければならないことになる。つまり、選択消費が増えるのと軌を同じくして「抑圧の選択」がはじまっているのだと言っていい。この点を病理的だと考えるべきか健全だと考えるべきかの判断はすぐには下せない。抑圧の克服がなければ実存はえられないし、実存をえるために取り組もうとする抑圧がその個人にとって適切なものかどうかは取り組んだあとでなければわからないからだ。
このとき、より反省的な視点に立ってみれば、「なぜこれらの抑圧に取り組まなければならないのか、よりよい抑圧はどうすれば選択できるのか」という抑圧が生じることがわかる。このような抑圧を「メタ抑圧」として考えてみよう。諸抑圧を選択しなければならないことから生じる抑圧だからだ。これは、たとえば「ひきこもり」の心理などに当たると思う。また、先ほど述べた「なぜ経済が営まれなければならないのか、というメタ経済学が必要な時代」であることとも通底していると思う。
(吉本の「無意識をつくる」という言い方や筆者の言いかえである「抑圧が選択可能である」と言ったときに、「無意識の作り手」や「抑圧の選択主体」は誰なのか・何なのか、という疑問はのこる。この点は今後まだ考えていかなければならないだろう)
【吉本の詩的言語論~自己表出の倍音化について~】
ここでひとまず吉本の現代分析をたどる道のりを小休止し、次に言語表現と社会の関わりについて述べている著作『言語にとって美とは何か』を見てみよう。
『言語にとって美とは何か』は大作であるが、その最終部分に社会と現代詩の表現の結びつきに関わる記述がある。その部分を引用してみる。
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わたしたちが、現代の社会的な徴候をふかく身に浴びているかぎり、言語はその内在的な本質だけでひとりで夢遊病者のように遊行し、これを現実につなぎとめるためには、ただ一本の現実の糸では足りず、よじれて逆さまになった糸やら、言語が遊行しようとする高みには、どこまでも延びてゆく眼に見えない伸縮性をもった糸によって現実的な指示性とつながっている、といった像をおもい浮かべざるをえなくなっている。これが言語の自己表出の構造の現代的な問題である。
わたしがとってきた言語観に立場が象徴されているとすれば、そのもっともおおきいのは、言語それ自体の内部に自己表出を想定することによって、言語をひとつの内的な構造とみなすという点にある。
(中略)
この立場は、一般的には、幻想性と現実性のあいだの乖離・異質性を明晰にあつかわねばならないという思想に根ざしている。
なぜ、わたしたちの時代は、そのことを強いるのだろうか?
わたしたちは、言語が、機能化と能率化の度合いをますますふかめてゆく事態を知っている。生産力の高度化と生産関係の複雑化にともなって、言語の指示機能は高度化と能率化を強いられ、それ自体が明晰になることを余儀なくされる。これは言語においては語彙の多様化と、個々の語彙の内部での明晰さを強いられることを意味する。概念をあらわす語彙は増える一方であるが、それとともに個々の語彙は、ある概念と一対一で対応する記号化の作用をますます強くされてゆく。
しかし、これが言語の現代化のすべてではない。この語彙の多様化と明晰化とは、言語の内的な構造を分裂させ、一方では、幻想性はますます言語の内部で、この機能化と能率化に疎外された本質を抽出してゆく。
(中略)
産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活語のある部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちの心的な状態のなかで、じぶんが心の奥底にもっている思いは、とうてい言葉では云いあらわせないという意識はつよくなる。言葉が機能から遠ざかり、沈黙しようとするのだ。このような言語の現代的な分裂が、生産力の高度化や生活の簡便化といったような、それ自体が誰にもおしとどめることができない方位によって救抜されると考えることはできない。それは幻想の共同性にわたる根源的な疎外を問題にするほかはないのである。
このような言語の現代的な分裂の実相を、言語そのものの内部でとらえるために、エンゲルスが言及する必要のなかった自己表出の機軸を導き入れるほかはない。なぜならば、自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように、表現することが自己意識にだけ反響する自己外化であり、指示表出の極限で言語はたんなる記号であるという想定が可能であり、人間の言葉は、それがどんな場面でつかわれても、このふたつの極限に二重化されて存在しているからである。
このような言語の現代的な分裂の実相を戦後の詩作品で象徴させてみる。
歯車が夥しくおちてゆく
神の掌より
杳なところ波があがる
笛を吹けよ
雨にぬれた青い葦の葉
羊たちはのびたり縮んだり
廃園への道が見えなくなる
洋灯の内側を拭き
重ってくる蝶の翅をめくる
遅刻した短剣が月に刺さり
花びらがしきりに溢れた
(吉岡実「牧歌」)
このような詩を喩のみでできた詩としてかんがえるとき、詩の表現として論ずるに値する何ものかであるが、ここではただ「笛を吹けよ」という第四行目をとりあげる。
A 笛を吹けよ(言語原型)
A’ 笛を吹けよ(「牧歌」四行目)
たんに、「笛を吹けよ」という言語表現を想定しよう(A)。これは、正常な言語球面では<笛を吹きなさい>という表出を意味する。これが指示対象からどれだけのレベルにある表現かを問わなくても、明瞭にある正常な言語水準を想定できるものである。
「牧歌」の第四行にある「笛を吹けよ」(A’)は、対象指示性としては<笛を吹きなさい>という意義しかもちえないが、言語総体の意味は、まったくちがっている。それは意識の遠いところに起る原像(この詩の場合フロイト的にいえば青春体験の記憶とでもいおうか)を、突然に現在の意志をもって破ろうとする自己表出を意味する。この自己表出と対象指示性としての<笛を吹きなさい>との分裂する総体をつかまえたとき、わたしたちは「牧歌」の第四行の「笛を吹けよ」の言語球面を把握したことになるのだ。
(中略)
つまり、一般的にいえば、芸術的な表現というものは、時代の社会的な現実の構成にも、また、時代的な幻想の共同性にも関係したいと願いながら、しかもこのいずれにも身を片寄せようとはしないという矛盾した領域だけを、いつの時代でも択びたがる性質を持っているということだけが重要なのだ。
(中略)
ここでは、つぎのことが問題になる。
なぜ、ある言語表現は像を喚ぶが、ある表現は概念の外指性としての意味しかもたないか?
わたしたちの創造の体験を反すうしてみても、こんどは巧くかきえたとか、どうも巧くいかないとかという結果的な反省しか蘇がえってこない。よほど意識的な創造家にとっても、この事情はあまりかわらないはずである。ただ、巧くいったとおもえる言語表現には像がつきまとい、この像は、けっして現実体験の強弱によるものではなく、創造の過程でどれだけ表現の世界に没入することができたか、という感じとパラレルな関係があるのではないか、ということである。
(中略)
サルトルのように像意識が、人間の自由にかかわるというならば、像は人間の自立の構造に関わるのだ。
わたしどもの表現という概念は、この人間の歴史的な現存性の構造にかかわりながら、この構造を人間の現実的な存在の方へおしかえすことによって、みずからは言語表現そのものの構造に転位したものをさしている。
(中略)
わたしたちの考察してきたところでは、甲の表現した<シャルル八世>と、乙の表現した<シャルル八世>は、けっして等価ではない。なぜならば、それは自己表出と指示表出の根拠から逆方向に転位された、表現の構造だからである。
(中略)
わたしたちは像を言語の構造に附着させてかんがえてきた。それは、まず像を表出の概念として意識にむすびつけることによって、つぎに表出を還元から表現へと逆立ちさせることによって可能としてきたのである。わたしたちは、心的構造とその諸現象についてたくさんの考察をのこしているが、表現の構造についておもな原理的問題は提出してきたのである。
『言語にとって美とは何か』「第Ⅶ章 立場第Ⅰ部 言語的展開(1)1言語の現代性」より
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吉本の言語論の大きな特徴は、言語の「自己表出」の側面を導入していることにある。
「自己表出」を盛り込むことで、吉本はそれまでのマルクス主義的な言語観から芸術の価値を救いだそうとする。マルクス主義的な言語観においては、唯物論的に言語を記号の側面からしかみないので、言語芸術の価値は他の労働価値と同じく労働時間によってはかられることになる。しかし、これでは芸術の価値としては、推敲にかけた時間しかはかれないことになる。そこで、吉本は言語芸術においては記号的側面から明確にわかる差異である「指示表出」のほかに「自己表出」の側面があり、これが言語芸術の高さを担っているのだと述べる。
自己表出の概念は発表当時から「明瞭な表面的差異が判別できない」として、批判にさらされたが、時枝文法における「ゼロ記号」の概念を引き継いでいるものともいえ、マルクス主義的な言語論やテキスト論派の文学理論が意気消沈してしまった今となってはかえって独自の理論として希有だといえる。
たとえば、子どもに比喩表現を教えるさいには、言語記号外の実体験や経験や感覚を参照する必要性が出てくる。これは、言語表現が記号的差異のみを参照していては理解できないことを指している。したがって自己表出は、言語表現を理解するための下支えとなっている実感や感覚の部分であるということができるだろう。このため、吉本は沈黙や絶叫なども自己表出として含み入れる。
いまの「若い人」にはこのあたりの説明でそろそろ解説が必要になるかと思うので付言しておくが、吉本はマルクスから出発はしているがマルクス主義にはそのまま当てはまらない。かえってマルクス主義者ともしばしばひどく対立している。蛇足ながらこのことを付け加えておく。
さて、この「自己表出」の考えを『言語にとって美とは何か』の記述に沿ってみていこう。
吉本は生産力の高度化によって言語が産業語や事務語などのように機能化・能率化していくとする。機能化・能率化された言語はあいまいさを許さなくなるので、そのような言葉では「じぶんが心の奥底にもっている思いは、とうてい言葉では云いあらわせない」という気持ちが強くなる。このような疎外は人間の共同幻想がもつ根源的な疎外のありかたであるので、機能化・能率化する言葉に合わせていこうとする方法では解決不可能である。このような状況に取り巻かれながら、「心の奥底にもっている思い」は自分の内部に屈折していき、「自己表出」としての度合いを高めて表現されることになる。
この点ですこしわかりやすく解説する必要があると思われるので、図を用意した。
円弧の中に品詞を置き、縦軸を自己表出性、横軸を指示表出性とするのは吉本の著作によるものである。今回、筆者はこの円弧をさらに反転させて書き加えることにした。図では赤い円として描いてある。この赤い小円は青い円と本来同じ直径をもつものであるが、図示の際重なっていると見にくくなるので、小さく描いたものである。また、なぜ軸を反転させるのかというと、そのほうが一つの軸上に自己表出と指示表出の度合いを書き表すことができて好都合だからである。指示表出・自己表出の円弧からその度合いを波動化して書き表しておいた。これは、三角関数で円弧における角度の度合いからサイン波やコサイン波を導き出すのと同じ作業であるから、大して複雑なことをしているわけではない。こうして波動化すると、指示表出と自己表出がちょうどシンメトリーの波動を形作ることが分っておもしろい。また、吉本が『日本語のゆくえ』において述べているように「指示表出と自己表出は織物のように組み合わされている」ということを視覚的にあらわしているように思う。これらの波動は、実際には「笛を吹けよ」という文の、一般的な指示・自己表出の度合いをあらわしているだけに過ぎない。しかし、詩作品としての文脈や、言語の機能化・能率化という社会状況の中においてみると、それらの疎外の圧力を受けて、さらなる高度な自己表出の波動を生み出していることがわかる。水晶振動子が圧力を加えられると電流を放出するのに似ている。ある緊密さで言語の結晶格子を構築し、社会の疎外の圧力に対峙させると、言語構造の中の自己表出が励起し、通常より高度な自己表出軌道に遷移する。このとき、自己表出はより高度な波動を描くことになるので、いまある自己表出波動の倍音を表出していることになるだろう。
通常言語の意味から詩的言語が離脱して自己表出の度合いを高めていく様子を、吉本はこのように考えているのだと思われる。
(ただし、この場合の倍音の「高度さ」「度合いの高さ」は単純に自己表出軸を高く登っていくこととは少々異なると思われる。単に自己表出を高めたいだけであれば、感動詞ばかりを使って作品を作ればいいわけだが、例えば泣いている赤ん坊の泣き声が、常に聞くものに悲しみの共感を呼ぶわけではない――赤ん坊同士であればいっしょに悲しくなって泣き出す、という場合があるが――ことからも、そうはいかないことがわかる。したがって自己表出の倍音は、次元を違えた高さで振動しているのだと考えることができる。自己表出の表出のされ方がどう複雑化していくか、という点についても吉本は詳述しているが、ここでは触れる余地がないので、指摘するだけに止めておく。)
おそらく吉本が「いまの若い人たちの詩は無だ」というとき、この「自己表出の倍音」がでていないよ、ということを言いたいのだろう。現代的状況に対して課題意識がずれているか、自己表出の波動を高めていくということに関して無関心であるか、あるいはその両方で、いまの若い詩人は自己表出の倍音化ができていないと言いたいのであろう。
では、これらの問題にわれわれはどう取り組んでいけばいいのだろうか。
【課題解決の方策①~世界視線の獲得に向けて~】
ここまででいちおう吉本の提起した問題を具体的に把握することができたと思うので、次にこの課題をどうやって解決していくべきか、考えてみよう。
おそらく吉本は「世界視線」の概念がこの課題を解決する糸口になると考えている。『日本語のゆくえ』において吉本は斎藤茂吉の短歌を「世界視線がうまく構築されているので優れている」と評していた。この点を参考にしながら考えを進めていこう。
吉本が「世界視線」という概念を本格的に取扱った論考は『ハイ・イメージ論』(1984年刊行。引用文は『吉本隆明全集撰 7 イメージ論』によった)である。
「あとがき」が「世界視線」をおおまかに知る上でたいへん参考になるので、まずこれを見てみよう。
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わたしの考えを基本的にたすけたのは、現在すでに究極的な次元をもつ映写的な像(イメージ)が、コンピューター・グラフィクスの映像と、それを対象としてみる場所(環境)との連関する場所として技術的に実現されていたことであった。わたしはこの実現されている高次な像(イメージ)と像(イメージ)を見るものの場所との連関を、要素に分解し論理づけるところからはじめた。これは結果的にいえば、上方から垂直におりてくる視線が通常の視覚作用に同時に加わったことと等価であることがわかる。
ひとは通常の視覚作用と同時に上方からの垂直な視線が同時に作用する場合の像(イメージ)を体験したり想像したりすることができるか。これは修練と経験の問題に帰せられてしまう。ただそんな体験をしたという記述は、瀕死から回復した人たちの体験談のなかと、宗教的な他界遊回の体験の記述のなかに登場する。この体験は自己身体の残留の感じとともに保存されていて、最小限に見積っても心的な体験としてありうることがわかる。わたしは心的な体験としてのこの視覚について、べつな論稿で書いているので、ここでは上方から垂直におりてくる視線が同時に行使される場合と類似の例を、外在的な体験として普遍化しようとした。これは都市論として『ハイ・イメージ論』のなかで、大きな部分を占めることになった。わたしたちは大都市の過密のビルディング街で、外圧的に通常の視線と上方からの垂直の視線とが、同時に行使されたときと等価な視野像に出遇うことがある。それは重要な体験的意味をもっていて、わたしたちの内在とこの外在的な都市の視野像とが呼応して、外在物の像(イメージ)化が起こるのは、この視野像においてであるといえる。これはさまざまな文明史的な意味賦与ができて、この部分はいわば現在の大都市に象徴される未知な文明の領域へ、わたしたちが移行しつつあることに対応するものとみなすことができる。
(「あとがき」『吉本隆明全集撰 7 イメージ論』1988、大和書房)
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『ハイ・イメージ論』で吉本がいいたいことは、次のようにまとめられると思う。
臨死体験をした人が、自分自身の身体がどうなっているかを、自分の肉体を離れて見てしまうことがある。そのとき、映像としては本来見えないはずの自分の裏側や側面や上下までも一度に見てしまうことがある。このような高次元の映像をもたらす視線を吉本は「世界視線」とする(本来いちいち移動しなければ見ることができない側面を同時刻に見てしまうということだから、時間的前後に縛られない、四次元的な視線だと考えてもいいと思う:及川注)。このような視線が重要なのは、一つにはコンピューターグラフィックスで再現可能になった現在考え得る最も高度な映像と類似しているからである。
もう一つは、現在の社会が高度情報化社会になり、生産活動がいちいちの手段の「マトリックス的な総和」になっているからだ。生産活動がマトリックス化しているということは、どこまでも高次な制御可能性をもったエレクトロニクスシステムの集積体が高度情報化社会の生産工程の表現になっているということである。生産活動がマトリックス化していることは、それまでの生産活動から生産手段の飛躍的な転換と、濃度と次元展開生の高度化を指し示している(つまり数学の行列の計算式で、一度の計算操作で行列内のたくさんの数値が一度がらっと変化してしまうように、産業の高度情報化によって、生産過程に加わる操作がほんのわずかな労力・回数でがらっと時間をおかず、生産過程の全体に渡って影響を及ぼすことが可能になったこと―POSシステムやSOHOなど―をさしていると思われる:及川注)。
そして―ここからが吉本の論の独特なところであると思われるが―高次な世界視線をもった映像と、高濃度高次元な生産過程をもった社会とは、お互いがその隠喩になるような関係を結んでいる、と吉本は考えている。これは、次のような表現から読み取れる。
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わたしたちの想定している「高度情報化」の社会像では、たとえ不可能に近くても、この像(イメージ)価値を動かしている方向性をもったパラメーター、あるいは世界方向とたんなる和の数列に解体されるマトリックスの全体に照射してくる世界方向からの認識の場所を、見つけることが肝じんだと思える。
(『ハイ・イメージ論』所収「映像の終わりについて」より)
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また、吉本はこのような視点の隠喩の関係は、都市の中で発達した建築様式の群れが全体として企まずとも表現する或る風景のなかに、ハイパーな視線映像となって表現されることもあるともいう。
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わたしは、ひとつの超高層ビルのレストランで休んでいた。(中略…図版上に挿入された写真をさして)ところで中央の窓枠から左側にみえる超高層ビルは、じつは虚像であり俯瞰された光景の一部ではない。偶然に中央から左側寄りの窓ガラスが、鏡面の役割を果たしたために、そこに写しだされたものだ。そしてさらにその左側の窓枠のなかに狭い長方形で覗かれる光景は、ふたたび俯瞰して実際に見える光景の一部分である。わたしはここで偶然が造りだしたコラージュの多空間を見ることになった。窓枠の内側には植木鉢がおかれ、その内側には仕切があって、仕切の内側はまた別の座敷らしい奥行きが感じられる。この偶然に得られたかなり複雑なコラージュのタブローは、現在わたしたちが視覚像として実現できる最大限の多空間のコラージュになっている。
(中略)
現代絵画のまったく想像力だけによる多空間の創造と、現在の大都市の超高層からの俯瞰の視線があたえる実在の多空間の創造空間への転化の契機とが、どこかでこう交換される可能性をもつことに関わっていると思える。わたしたちは現在たぶん新しい多空間を、じっさい大都市のいたるところで認知する事態に当面している。ただそれを意識化できていないだけだ。これが現在の都市空間の変貌といっしょにどう展開されるか、それは空間認知の想像力、あるいは想像力の空間認知をどう変貌させるか。そのことと同義をなしている。
(『ハイ・イメージ論』所収「多空間論」より)
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このような、都市空間のなかに現代的な「想像力の空間認知」の隠喩を探していく視点から、『日本語のゆくえ』における後楽園遊園地のジェットコースターのエピソード(「第二章 芸術的価値の問題」「視線の変換について」)なども出てくるのだと思われる。
さて、吉本の論の特徴をだいたい見ることができたので、これからこの「世界視線」の問題と文学、なかんずく現代詩がどう関わるのか、という課題を考えていかなければならない。
こんなことに簡単に答えが出るわけはないのだが、この取り組みで筆者が失敗しても、この失敗の屍を踏んで、誰かが正解に進んでいけばいい。とにかくここではやれるだけのことをやり、考えられることを可能な限り考えて書いておく。
吉本が「世界視線」というとき、これは時間の制約を超越した「神の視線」のことだと考えてみるとわかりやすい。サルトルらが小説における「神の視線」を批判したのは、それが作者自身をも含む人間という枠組みを外から客観的に眺めるような行為は欺瞞だ、と考えられたからである。自分自身を含む系列を外側から見るような視点は必ず矛盾をきたす。ところが、現代の生産活動は、ほとんど「神の生産活動」までもう少し、というところまできてしまった。神の生産活動が極小の操作でありながら空間的無際限において時間的同時刻におこなわれるのだとすれば、まだそこまではいたってはないが、その小さな模倣であるような、「空間的には地球全土、時間的には極小単位」であるような生産活動が社会の最先端ではおこなわれつつある。このような大規模な生産活動を(あるいはその「意味」を)見わたすことができるような認識の視座はあるか。または比喩的にでもよいから、そのような認識視座から眺められたようなイメージや表現を作ることができるか、というのが吉本の課題意識である。サルトルたちの論議を蒸し返すことになるから、「神の視線」という用語を避けているのだろうし、また、いまサルトルたちが考えていたような意味での「神の視線」を繰り込んだ全体小説は不可能だろう。神話的な隠喩表現でなければ現代の生産活動の全領域を含み混んだ表現は不可能ということになる。ここで、「世界視線」と「神話」が類似する関係として理解される。古代人が世界を総合的に把握しようとして知性を極限まで働かせたとき、比喩表現として神話が生み出された。神話は古代人の知りうる限界までの世界を説明する充分な働きをもっていた。であるならば、現代においてこの巨大な生産活動を含みこんで世界を説明できる認識の視座=世界視線=「神話」は可能だろうか。
吉本はいくつかの論考で断片的にこの可能性について述べている。以下にそれと思われるものを引用する。
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この詩の精神は、どんな現れ方の様子をもったかをもう少し詳しく申し上げてみます。それにはいくつかの類型があります。一つの類型は詩の精神(つまり魂)は、自由に肉体を離れて遊行することができるんですが、留まる場所が決っていて、たいていは村里の外周にあるわりに目立つような山の頂です。魂はフラフラとそこに集まる。そこである仕方で迎えに行くといつでもまた自分の家へやって来たり、あるいは他の人のところに生まれ変わったりすると信じられていました。この場合、現在からみて何が問題になるか考えてみます。眼に見えない魂が、山の頂と村里の間を遊行するのに、それを媒介とすると考えられたのは何かと言いますと、それはたいていは山の頂上にある巨きな石とか、そこに生えている樹木とか、村はずれの森の中の目立つような木とかいうものです。山とこちら側とを自由にふらふら往来する詩の行動様式にとって石とか木とか尖った棒が媒介すると考えられていたと思います。これは今風にいって何が重要かといえば、詩の精神が「形態」というものについて初めてある認識を獲得したことを意味していることです。つまりこの形態感覚というか形態認識というかそれが、いま言った山の頂に自由に行き来できる様式の一番大きな意味だろうと思われます。この場合の形態は尖ったものとか、棒のようなものとか、樹木のようなものが優先された形態なんです。けれど一般的に形態の感覚や認識が初めて詩の精神に気づかれたことを意味しています。
もう一つの大きな分類があります。詩の精神、つまり魂はいつでも海の向うに歩いて行くことが、海の向うに鳥のようなある種の魂の集まるところがあって、そこにいつでもフラフラ行くことができるし、またそこからいつでも帰ってくることができるんだという認識です。この場合に何が魂を乗せて往き来する媒介だと考えられたかと言いますと、空を飛ぶ鳥だと思います。この場合鳥というのは雁とか白鳥のような渡り鳥つまり季節によって往ったり帰ったりする候鳥であれば、一番いいわけです。魂を乗せ易いし、また帰る時期がよく分りますから。このことが何を意味するかといえば、たぶん空からの、真上からの視線に詩の精神が初めて気付いたということだと思います。つまり詩の精神が真上から見た鳥瞰図とか鳥瞰像に初めて気がついたのは、鳥が海の彼方とこちら側を結ぶ媒介物だと考えられた場合の一番大きな問題のように思われます。
それから大きく分類しますと、もう一つあります。それは海岸のふちとか村里のはずれとかの岩山みたいにあけられた洞窟です。洞窟のようなものを通って、魂は自由に向う側のどこかの世界に行くことができると考えらていました。(中略)
この場合の、詩の精神の行動様式を今風に言って何が重要かといえば、ぼくは光と影の認識や感覚だと思います。光と影の世界を詩の精神が初めて獲得したことを意味すると思います。洞穴を通って向う側の世界とこちら側の世界を、魂を乗せて結ぶものは多分「光」だと考えられていました。もっというなら、光はこのばあい自然光ですから太陽の光が媒介すると考えられていたのではないでしょうか。
詩の精神の行動様式は大きく分類しますと今の三つに尽きると思います。
(『詩とは何か』思潮社2006「詩魂の起源」初出時は不明)
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吉本が「わが国の浄土教系の宗教では、<生>と<死>との根拠地の何れも、死後の世界(浄土)におくという考え方が、もっとも徹底的なものである。そのために、普通いわれている<生>とか<死>とかは、いずれも現象にこだわり、偏執するところから由来する区別にすぎないということになる。そして<生>と<死>が、共に根拠としてる世界は、あらゆる空想できるかぎりの、美麗さをもった清浄な風景で描きだされている。C・G・ユングの考え方は、かなりな程度まで、これに似ている。」と言うときや、「このことが何を意味するかといえば、たぶん空からの、真上からの視線に詩の精神が初めて気付いたということだと思います。つまり詩の精神が真上から見た鳥瞰図とか鳥瞰像に初めて気がついたのは、鳥が海の彼方とこちら側を結ぶ媒介物だと考えられた場合の一番大きな問題のように思われます。」と言うときに、何を言わんとしていると考えればよいのか、考えてみる。
自分を含みこむ系列から人間が抜け出しがたく思う、ある種の桎梏をもって逃れがたく思う、そんな関係性があるとする。たとえばそれは自分の容姿や性別役割や親子関係や恋愛や、労働環境やカースト制度、国家や産業構造など、なんでもよい。つまり吉本のいう幻想構造の全領域に渡ってこれを抜け出しがたいものとして捉えたとき、これを客体化して俯瞰する視野が得られると、ほっと楽になるということがある。
これは地上を狩猟に歩き倦んだわれわれの祖先が鳥を見てあのように自在に飛ぶことができたらなあとあこがれ、魂を遊離させて自分や、自分を待っている部族やその中でも性的伴侶やその伴侶の胸の内の待望の思い、などにどんどん自在に入り込んでいくことを可能にする。これが神話や詩の発生であると吉本は考える。こういう自在さ・自由さを表現のなかで感得しようとすることを人間はずっとやってきているわけだが、現代の若い詩人はこういう表現を構築しようとしていない、またそれを目指そうともしていない、と吉本はいいたいのだろう。
そしてしかし、これが難しい課題であることも充分に吉本は熟知している。それはこんなに巨大化してしまった生産活動をもった社会に、これまでのどんな文学的天才も直面したことはないことを知っているからだ。これまでのどんな文学を、詩をもってきても、それが世界視線=神話の役割を果たすことは難しいだろうということを吉本は知っている。だから、今の若い詩人の表現を情けない・呆れたものだと思いながらも、あえて罵倒しないという寛容さを見せているのだろう。
【課題解決の方策②~現代詩は「霊性」を表現することができるか~】
ここまででおそらく大まかに吉本の言いたいことを若い詩人に通訳する役割は果たせてきたと思う。この最後の章では今度は吉本に対して若い詩人の側の意見を述べる、と言う要素を交えていきたい。
これも若い詩人がみんな賛同するということはないであろうが、いちおうの意見として述べる、ということだ。意義があればその詩人が逐一述べていけばいい。
われわれは生産活動がマトリックス化した社会に生まれ、おそらくはこの社会のなかで死んでいく。こういう比喩が倫理的に正しいかどうかはわからないが、われわれには生産活動のマトリックス化とは核兵器の爆発のように感じられる。生産過程が単線的なものであったときの様態を単純兵器の爆発になぞらえるならば、マトリックス的な生産活動は無数の放射線が放射能物質をビリヤード的に無数回分裂させていく過程に似ているからだ。
われわれは24時間的に社会が産業化を進めていく過程に常に被爆していると言ってよい。吉本が『言語によって美とは何か』で「産業語・事務語・論理の言葉、そして日常生活語のある部分で、言語が機能化してゆけばゆくほど、わたしたちの心的な状態のなかで、じぶんが心の奥底にもっている思いは、とうてい言葉では云いあらわせないという意識はつよくなる。言葉が機能から遠ざかり、沈黙しようとするのだ。」と言った状況が、ほとんど言葉で言い尽くせないほどハイパー化してわれわれを覆い尽くしていると言ってよい。このような状況で本当に自分の身体感覚が感じとっていることを表現しようとすれば、叫び声のように指示表出性の薄い自己表出のみの表現になるか、あるいはそれ以下の身体的な直接表現(格闘・舞踊・犯罪など)などになるほかない、というところまで追いつめられている。
ここで心ある詩人は、反復強迫的に言葉で「無」を作りだし、核爆発的産業活動に抵抗しようとしている。いいかえれば油田の火事をダイナマイトの爆発で消火しようとするようなものだ。ただしこのような表現は、難解な言語表現を伴うので一般の人にはわかりにくい。また、弥縫策的で対症療法的なので根本的な解決にはならないと言われてしまえばそれきりだ、という問題がある。
この点を吉本は「無」だと非難しているのだと思う。では、吉本が必要だという「自然」はどうすれば詩に取り込めるか。「自然」をどう解釈すればよいか。吉本と若い詩人を共通の土台に立たせるためのうまい視点は形作れるだろうか。この点を少し追究してみよう。
福島県飯舘村にある山津見神社では、狛犬の代わりに「狼」が門前に並んでいる。この神社では狼を「ご眷属様」と呼び、神の使いとしてあがめている。もちろん現在は日本狼は絶滅しているのだが、古代からの日本人にとって、山は、とてもトレッキングの対象になるような娯楽の場所ではなく、いつ狼に襲われるかわからない、恐るべき場所であったのだろう。狩猟民にとっては獲物を与えてくれる豊かな場所でありながら、反面猛威をふるう畏怖の対象であった。ここでは生と死とが或る聖性を帯びたものとして感得されていたであろうことは想像に難くない。ここで、筆者はこのような自然の在り方を「聖性を帯びた捕食・被捕食の循環」としてとらえなおしてみたい。このような自然に対して畏敬や畏怖を感ずることは古代人にとって当然のことであり、詩型のなかに自然詠を交えるとき、それは自然の美を単純に詠みこむことではなく、ただちにいつ捕食されるかわからないという畏怖を背後に伴わせるものであった。
つまり生まれていきものを殺して食べ、また死んで生き物たちに食べられていくということが、古代人の観念のなかでは贈与の循環に預かることであるから、なんら無意味なものではない、という視点(世界視線=神話)が構築されていた。
生産活動と個人の生はともに単なる物質の循環ではなく(むろん物理的に考えれば単なる物質の循環なのだが)より高次の意味づけを伴っていた。
このような高次の意味づけを現代の社会において可能か、ということを吉本は問うている。
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死後の生命はあるか?
ほとんど<神秘家>としては最後の問題であろうとおもわれることに、C・G・ユングは<夢>を先立ての武器として、かかわってゆく。この順序は逆で、死後の生命も発展することを認め、また、死者が到達しうる上限は、どこかで達せられている現世の最高水準までで、死者もまた新しいことを知りたがっていると語っているC・G・ユングは、当然死後の生命は<ある>と前提していることになるではないか?たしかにそうだが、死後の生命が、どう振舞うかについて語ることと、死後の生命は<ある>かと問うこととはちがう。前者は死後の世界を空想し、設定し、死からの救済を意図すれば、語ることが可能だが、後者のばあいには、<生>と<死>の越境の瞬間について、決算を語りえなければならないからである。もうひとつは、死後の世界の<構造>について、語らなければならないからである。わが国の浄土教系の宗教では、<生>と<死>との根拠地の何れも、死後の世界(浄土)におくという考え方が、もっとも徹底的なものである。そのために、普通いわれている<生>とか<死>とかは、いずれも現象にこだわり、偏執するところから由来する区別にすぎないということになる。そして<生>と<死>が、共に根拠としてる世界は、あらゆる空想できるかぎりの、美麗さをもった清浄な風景で描きだされている。C・G・ユングの考え方は、かなりな程度まで、これに似ている。ユングによれば、死後の世界が<ある>かどうかについて、<ある>と断定することにも、<ない>と断定することにも疑問がのこるところがある。だが、もし死についての<神話>を、それぞれが持ちうるなら、人間は<集合的無意識>の世界に、いいかえれば「死の中に」生きてゆくことになる。確かに無の穴ぐらに歩んでいくとかんがえることにも<集合的無意識>の「元型」にかえってゆくとかんがえることにも、「不確実さを残している。しかし、一方はその本能に反対し他は本能と共に生きている」ことになる。C・G・ユングのこのかんがえ方は、入眠状態や睡眠中の<夢告>の、心的な体験の累積からやってきているが、同時に死後譚は、世界中どこでも、さして変わらない<構造>をもっていることも示している。そしてこの変わらない<構造>の根源にあるのは、キリスト教とか仏教とかいう世界観念そのものではなく、ほんとうは、もっと原始的な自然宗教の土台に帰着する性質をもっている。C・G・ユングのばあいも、まったくおなじである。
(『書物の解体学』「カール・グスタフ・ユング」より。単行本出版は1975年。)
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生死は抜け出しがたい人間の情感のなかで最後的なものである。宗教はこの抜け出しがたさに意味づけを行なう世界視線をさまざまに工夫して表現しようとしてきた。ユングと親鸞は、なかでもこの死後の構造に「浄土」「集合無意識」という視座を与えようと努力した人であるとして評価されている。
現代詩は現代社会が抜きがたく乗り越えられないでいるような「無」を意味ある循環に反転させられるような「浄土」を表現できるのか。そのような世界視線を言葉で表現できるのか。このことを吉本は若い詩人に突きつけていると言ってよい。
いま筆者が想像の範囲で述べられるとすれば、この問いへの答えは次の二つの方角に詩を方向付けることになる。
(1)現代のマトリックス化した生産活動の死を仮定し、その生死を俯瞰する視点をつくりだすこと。
(2)現代のマトリックス化した生産活動の内部で生きる個人が、マトリックス化した生産活動を生み出した自然史総体に捕食されることを肯定できるような、俯瞰する視点をつくりだすこと。
このふたつのうち、自分で言っておきながらなんだが、(1)の方はどう考えればいいのやら筆者もまったく想像が及ばない。
しかし、(2)のほうであれば、少し想像ができるように思う。最後にこの点について意見を述べて終ろうと思う。
吉本は鈴木大拙について述べた以下の講演で、「霊性」について大変興味深い意見を開陳している。吉本が「霊性」ということを述べているのはこの講演だけであると思われる。
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今日は、鈴木大拙についてお話しするということです。鈴木大拙という人はどういう人かと尋ねられたら、いろいろと接近の仕方はあるのでしょう。一言でいってしまえば、霊性という概念を、固有に独自につくりあげた思想家だ、というところから始めてみたいとおもいます。
霊性という概念は、概念としては昔からあるのかも知れませんが、たとえば「日本的霊性」という言い方で、これを独自な使い方で使った、つまりそれぞれ民族に固有な霊、あるいは霊性が人間一般、人類一般の中にあって、そこからいろんな文化や宗教、風俗、あるいは文明とかいうものがつくりあげられていくんだとかんがえる考え方を、はじめて出した思想家なんだ、とかんがえたらいいんじゃないかとおもいます。それで、鈴木大拙が霊性ということで何を言おうとしているのかということから申しあげてみたいわけです。
われわれはごくふつうに、物質と精神があるとか、物と心があるとか、目に見える物質と、目に見えない精神を、二元的に二つに分ける考え方をやっています。つまり精神の働きみたいなものと、物質はどうなっていくかということを別々に考えていきます。しかしそうではなくて、われわれはしばしば、物の中に精神といいますか心の働きが浸透している場面とか、逆に精神の中に物の影が浸透している場面とか、もっと極端にいいますと、物の働きであるのか精神の働きであるのか、あるいは物を見ているのか精神の動きを見ているのか、じぶんにもわからない、つまり主体的にわからないという場面に到達することがあります。そのばあいに、何が人間の中で働いているのかというと、単に精神が働いているというよりも、霊性が働いているとかんがえたほうがいいとします。そこから大拙固有の、仏教的な場所にゆくわけです。霊性は、よくつきつめてゆけば仏教、とくに禅が悟りといっているものゆき当たるし、それからもうすこし下がってゆくというのはおかしな言い方ですが、無意識の方に下がってゆくと無意識の心の働き方も、やはり霊性ということのなかに含んでかんがえることができます。ようするに、物とか心とか二元的に分けないでかんがえられる考え方のなかに、われわれはしばしば当面したり、じぶんでひとりでに入ってしまったりすることがあるわけですが、そういう心の状態を全部表すばあいに、それを霊性といったほうがいい。そういう定義のしかたを大拙はしていると思います。
(中略)
それで、いくつかの段階をかんがえてみますと、大拙が例に挙げているように、物質、あるいは目に見えるものと、目に見えない心の働きというふうに、二元的に物をかんがえる考え方を、ひとつ置いておきます。そのつぎに、それよりももうすこし大拙のいう霊性に近づいた段階の、心の働き方というのは、物固有のものであるのか、心固有のものであるのか分けられないで、両方が相互に浸透しあっているような、そういう精神の状態があります。そこの状態に無意識のうちにしばしば入ることがあるわけです。そういう状態のつぎにある最後の段階をかんがえますと、白熱した、とでもいうような霊性の状態があります。これはたぶん、仏教でいう悟りという状態に対してかんがえられています。そういうふうに分けたらいいんじゃないかと、すこしわかりやすくかんがえたわけです。
(中略)
さて、それではもうすこし、固有の考え方で、大拙のいう霊性をいってみたいとおもうわけです。ぼくがいまかんがえている考え方によりますと、身体生理的にいって心の働きとか心の動き方と呼んでいるものは、たぶん内臓に関係する精神の働きのことを呼んでいるとおもいます。たとえば、だれでもそうですが、胃が悪くなると心がうっとうしくなるとか、憂鬱になってくるとかいうことがあります。それからそういう例を挙げますと、ぼくらが精神をあることに集中しようとするときに、たいてい無意識のうちに息を詰めたりしています。つまり、息を詰めてるとは、肺臓の働きを停止しているわけですが、停止しておいて、精神を集中することをやっています。それは、無意識にやっていますけれども、内臓の働きに関係する精神の動き方を指して、ぼくらは心と呼んでいます。心と呼んでいるものは何なのか、それの生理的な基礎は何なのかといいますと、たぶん内臓の動きが表現されたものが心、と呼べるだろうとかんがえられます。
そうして人間の精神の働きにはもうひとつあるわけです。それは感覚です。目とか耳とか口とか、手で触れるとかそういう五感の働きによって外界のものに対して反応する、そういう感覚の動きからくる、間接的な精神の動きがあります。つまり厳密にいいますと、人間の感覚的な働きというものと、心の働きというものとは分けてかんがえられるものです。感覚の働きというのは、視覚とか聴覚とかの五感と外界に関係する働きだとすると、心と呼んでいるものは、内臓の動きが精神の方に表現された働きとかんがえれば、よろしいとおもいます。そうしますと人間の精神の働きというのは、感覚作用とそれから心の働き、つまり内臓の動きからくる働きのふたつを混合したものです。
つまり、感覚の働きからくる動き、内臓の動きからくる働き、そのふたつが区別できない状態が、大拙がいう霊性にいちばんちかいのではないかなとかんがえます。
ぼく自身はそれを言語論の方に結びつけています。内臓の動きからくる心の表現は、ぼくの言語論では<自己表出>という言い方をしています。それから、感覚の働きから、つまり、外界にたいする感覚の反応からくる表現は<指示表出>と呼んでいます。つまり<自己表出>と<指示表出>とが区別しがたい持続状態というものをかんがえると、大拙のいう霊性というものにいちばんちかいところまでいけるんじゃないかとかんがえます。
(中略)
それから、もうひとつ、大拙の霊性の現われで重要なことがあります。それはぼくにはちょっと理解しがたいことで、なんとなくわかるだけです。ようするにそれは地面といいましょうか、この「大地」だと言っているとおもいます。「大地」から人間の心が離れてしまえば、いかようにでも抽象化されていく。抽象化をすすめていけば、物と心とを二つに分けてかんがえる考え方にどうしてもなっていってしまう。だから、いつでも人間の心、精神の働きは「大地」を離れてはだめだと大拙は言っています。日本浄土教は、「大地」をいつでも離さないようにしていることがとてもおおきな特徴だと大拙はかんがえるのです。その「大地」が『歎異抄』がよく言っている<慈悲>ということにあたります。つまり大きな<慈悲>と小さな<慈悲>をいうとすれば、人間ができる他人にたいする同情や憐れみは、小さな<慈悲>にすぎないので、ほんとは大きな<慈悲>が重要なのです。人間はその大きな慈悲にたどりついて、そこから還ってきて、他者にたいする同情や憐れみを発現しなければならないと『歎異抄』の親鸞は言っています。たとえば目の前に人が倒れていたとか、人が困っているとき、その人を助けるのは善いことか悪いことか、というとてもきわどい問題を出すわけです。親鸞は、それは小さな<慈悲>で、そういう人々を完全に助けおおせようとしたってそれはできるわけがない、つまり十分にできるわけがない。それよりも大いなる<慈悲>に到達することが第一のことだ。そこに到達してから、還ってくるべきだ、と親鸞は『歎異抄』で言うわけです。つまり大きな<慈悲>とはどこで働くかということで、また人さまざまな解釈をするわけです。しかしぼくは先ほども言いましたように、念仏を称えたということと、向こうから光が射してきて途中で遭遇した、そこが大きな<慈悲>の発祥地であり、そこから還ってくればいい、という意味に理解しています。
大拙は考えが「大地」を離れない、あるいは心が地面を離れないということを、浄土教における<慈悲>を根本においているとおもいます。この「大地」はどこからくるかということは、ぼくにはまったくわかりません。つまり、大拙にとって何かの比喩であるのかな、という感じがします。大拙がこの「大地」という考え方をどこからとってきたのか、ぼくにはよく理解できません。でも、何を言おうとしたのかはとてもよくわかる気がします。この「大地」を離れた思考というのは、だいたい抽象化されて、抽象化を推しすすめれば物と心、物と精神とが全部二分化される。だから、どうしても「大地」を離れてはいけないんだという。もし大いなる<慈悲>というものを離れまいとすれば「大地」を離れてはだめだということでしょう。つまり、ぼくらがかんがえている親鸞の<死>の場所を、大拙は「大地」という言い方でかんがえているんだとおもいます。それがどこからくる考え方なのか、ぼくにはよくわかりません。この比喩は大拙にとって何なのかも、ぼくにはよく理解できないところです。しかし、日本浄土教の、法然、親鸞の思想から「大地」という考え方を特徴として採り出したのは、ぼくの知っているかぎりでは大拙以外にはありません。これは珍しい考え方だといえるとおもいます。これは大拙が日本浄土教に現れた霊性的な極限のかたちだと言っているのだとおもいます。
(『親鸞復興』「大拙の親鸞」1995年発行。講演は1992年)
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修練を積んだ僧侶の身体内部では自己表出と指示表出が融解して白熱化し、無際限の光に包まれる、あるいはそのような光を見る、という体験が起きる。これは自己表出波動の倍音の方角が世界視線のベクトル軸と一致する事態を述べているものだと思われる。
このとき僧侶は阿弥陀如来の光の広大無辺のなかで自在感を充足するが翻って阿弥陀如来の誓願を反省するに衆生を救済するという大慈悲心を感得するのであるから、再び身体に戻り、大地に戻って衆生救済をするということになる(これを大拙自身は「浄土往生は、あってもよしなくてもよい。光の中に包まれているという自覚があれば、それで足りるのである。念仏はこの自覚から出るのである。念仏から自覚が出るというのは、逆である」と述べている。『日本的霊性』「第一篇 鎌倉時代と日本的霊性」)。
法然と親鸞の浄土教は身体の修練を経て自己表出と指示表出が融解する場所を作り上げ、世界視線と結びつけることができた。そこからなら当時の社会状況に捨身する(捕食される)ことが可能になった。
現代詩人は現代社会に捕食されることを肯んじるだろうか。それが肯んじられるような自己表出と指示表出の融解白熱するような表現を生み出せるだろうか。
そのためにはある種の身体的な修練が必要なのだろう。
とりあえず吉本に評価されるためには詩人はここまでの修練が必要だということである。もちろんこれに応じようとするかどうかは個々の若い詩人の勝手だ。